rwong氏へ例の同人取締条例が今度は大阪で制定される事になったしかも内容は東京より厳しくエロどころかBLややおい、耽美同性愛や恋愛ものの一部まで規制されるこれが通れば日本橋は沈没しますこっちは都条例だけで手いっぱいなので、大阪の件はそちらに任せる今は漫画家ツイッタークラブでその話題が沸騰しており関西から横浜へ亡命を表明する人もでて来たよろしく頼む
それでは前回の続きとしまして北海道編に移りましょう。 香椎で殺しのあったころ、犯人は「十和田」と青函連絡船を経て「まりも」で札幌に向かったと主張しました。今回はそのルートをなぞります。 確か昭和60年の冬でした。このとき東北新幹線は大宮まで開通。この年の3月には上野への延長も決まり、「十和田」は次回のダイヤ改正で廃止が決まっていました。私にとって「十和田」に乗る最初で最後のチャンスでした。小説当時の「十和田」は寝台車や食堂車も連結されていましたが、この時は普通車のボックスシートだけでした。私は夜行の場合、九州へ行くときは「あさかぜ」のA個室と決めていますが、それ以外の場合は急行「銀河」以外は極力普通車の自由席と決めています(「銀河」は定期ならB寝台、臨時は椅子席)。一つに普通車のボックスこそ夜行の旅に相応しいのと、周遊券を使えば急行ならタダで済むという安上がりな理由からです。周遊券の話になると今は廃刊となった「旅と鉄道」の種村大先生のごとく本筋からの脱線話になってしまいますので当然割愛します。一方の「まりも」はこの時には札幌を境に分断され函館側の昼の区間を「ニセコ」と、釧路側の夜の区間を「狩勝」と名乗っていました。 さて私は夜の上野駅でホームに新聞紙を敷いて「十和田」を待っていました。向こうのホームでは上野に夜を告げる「八甲田」が機関車の後押しでやって来ました。「十和田」の入線は21時頃、私はホームで駅弁を食べながら来るのを待ちました。それから何時間かあと「十和田」も同様に機関車の後押しでやって来ました。私はボックスを占領し、眠れぬ夜をすごしましたっけ。「夜行なんて眠れないじゃないか、あんなのどこがいい?」という人もいます。確かにそうでしょう。けど旅というのは非日常の世界。普段とは違うことを楽しむ場なんです。だから眠れない、朝起きて身体のあっちこっちが痛いのもまたよしなんです。機関車は水戸で交替しました。私は意を決して寝ようと勤めましたが、そうは行かぬが世の常でもあります。結局何だかんだの明神下で眠りについたのは平、今のいわきあたりだったと記憶しています。目が覚めたのは奥中山あたり、身体があちらこちら痛かったのは言うまでもありません。奥中山はかつてSL三重連で知られたところです。その地を水戸から受け継いだ電気機関車は小柄ながらも峠道を力強く越えていきました。こうして八戸につきます。「十和田」は車内販売がありません。ここで撮影かたがた駅弁の「小唄寿司」を買いました。富山の「ますのすし」に近い雰囲気があり、以後私はこの駅弁を贔屓しています。青森に近づき私は洗面台に向かいます。別にトイレが近くなったわけではありません。ここに青函連絡船の乗船名簿があるからです。名簿といってもタダの紙。用紙は二種類、寝台とグリーン船室は緑色、普通船室は白になります。私は当然白です。小説ではこの一枚の紙が犯人のアリバイを守ります。青森に着くとここで降りる人は後ろへ、さらに北へ向かう人は前の乗り換え通路へ向かいます。ふと右を見るとこれから乗るであろう連絡船の船倉には貨車がひっきりなしに積み込まれていました。 名簿を乗船口で渡して海上の鉄路とも言うべき連絡船は出航、函館を目指します。ところが折あしく青函海峡は悪天候、船はエレベーター状態で航行しています。気分が悪くなって初めての船酔いを体験しました。それでも何か食べないと余計悪くなるのがわかってましたので食堂で海峡ラーメン、塩と味噌の二種類あるのですが、函館なので当然塩を食べてました(実は私は味噌ラーメンが好きでない)。食べて幾分体調を戻した私は甲板へ出ました。灰色の雲から小雨の降るなか、雪をいただく下北半島の冬景色を目の当たりにしました。船はそれでも上昇下降を繰り返し私は程なくして船室に戻ります。船には現在位置を記す装置がありますが、私はそれを見て早く函館についてくれと願ったのですが、だがまだ半分も行ってないのを見て唖然としました。私は椅子席から桟敷席に移り時を待ちました。それでもいつかは着くものです。連絡船は函館に到着。だがそこで思わぬ悲劇が待っていました。小雪降る函館駅ホームに降り立つとそこには目指す「ニセコ」の姿はなく、音一つない世界でした。途中大雪で「ニセコ」は運休するかどうか検討中だったのです。私はそれでも待ちました、手がかじかむのも我慢して。発車時間も1時間以上たって「ニセコ」は機関車の後押しでやって来ました。いつもなら荷物車も連結されているのですがこの日はダイヤの乱れから客車だけでした。「ニセコ」は本州からの荷物輸送の任もあったのです。その性もあって他の急行が気動車に、さらには特急に変わる中、「ニセコ」は客車急行の孤塁を守っていました。鉄チャンの方はお気づきでしょう。この「ニセコ」こそ、最後のSL急行だったのです。さて「ニセコ」は大幅に遅れて発車、運転中の遅れではないので払い戻しになりません。こんな時先述の種村大先生だったら車掌さんを怒鳴りつけていたでしょうね。私は床下にエンジンがある椅子を選びました。騒音と振動を味わいたかったのが理由です。さて走り出した「ニセコ」ですが、道中更なる悲劇が待ち受けます。どこの駅とどこの駅の間だったか失念しましたが、雪に阻まれて缶詰になってしまったのです。周囲は雪の壁、雪は機関車と客車の間にも容赦なく降り積もります。私は時刻表を見ました。順調なら札幌で今度は函館行きの夜行荷物列車(客車が申し訳に2~3両繋がっている)に乗り換えるはずだったのですが、これで不可能とわかり覚悟を決めました。窓を見ると私の横の雪の壁が他と比べて削られています。床下エンジンの排気口が窓の下にあって排気が横の雪を溶かしているです。この間、車内販売が来て長万部で積み込む駅弁の予約を取っていましたので私は一も二もなく飛びつきました。二時間近く経って列車は運転を再開、車間に積もった雪を跳ね飛ばし走り出しました。かつて日本中のSLを廃止に追いやったこの機関車はSLファンから目の仇にされていましたが、この時こそこの機関車を頼もしいと思ったことはありません。こうして列車は長万部に到着。私が最も尊敬している人が自分の名前があるといった駅です。函館本線はここから山越えです。ここまで単機だった機関車は重連に変わりました。機関車を交換したらすぐ発車ですので写真を撮ってる間もなく列車は走り出しました。こうして列車は小樽に到着。ここからは電気機関車に変わります。日本海を望み列車は遅れに遅れながらも札幌に到着、それでも発車から二時間経ってなかったので払い戻しにはなりませんでした。「ニセコ」は札幌から先、釧路行き「狩勝」網走行き「大雪」稚内行き「宗谷」といった夜行急行に荷物ともども接続の任がありましたが、これらの列車はおりからの悪天候で運休または既に発車でこれらに乗れなかった人たちのために駅の待合室には駅員さんや公安さん(現、鉄道警察隊)が総出で寝具を敷いてくれていました。私もここでありがたく一夜を明かしました。ここにくだんの種村大先生がいたら、急行券を払い戻せと喚くだけでなく、きっと駅員さんや公安さんの心づくしをも踏みにじっていたでしょう。 翌朝は打って変わった晴天にもかかわらず、昨日の余波でダイヤは乱れ、函館行きの特急「鬼嫁」じゃなかった「北斗」も給油の関係で入線が遅れ、発車も推して知るべし。それでも函館について、連絡船と「十和田」で帰途の旅についたのでした。 前半順調だった「点と線」の文学散歩は後半が散々でしたでした。その分思い出も目いっぱいです。この年の3月の「十和田」に加え、翌年には「ニセコ」も廃止になりましたが、数年後、この文学散歩は思わぬ形で実現することになりました。 これらはまた明日以降に。